独立への鍵は「発想の転換」造園業も価格破壊の時代
バードランド 塩野 洋さん
●職人の道は頭脳と肉体の格闘技
とにかく旅行に出たかった。それも、いつものようなツーリングの旅ではなく、外国の一つの都市に一定期間滞在してみたかった。
塩野さんが印刷関係の会社を辞めたのは94年末である。DTPを中心にした編集から制作もこなし、営業にまで出る。明確なセクションもないまま、全般 をこなさなければならない環境にも疲れていた。
ニュージーランドのオークランドには3か月間滞在して、マクロブルーアリーをいくつか回り、地ビールを調べた。しかし、それが個人レベルでは、収入につながらないことがわかっただけだった。 デスクワーク以外の仕事をやろう。95年の9月に東京都の職業安定所を訪れたとき、いくつかの候補の中から植木屋に決めた。親方には昔ながらの職人気質があったが、根が正直で良心的である。他の職人たちともうまくやっていけそうだ。
親方は、最低限のことは、竹箒の持ち方から剪定の仕方まで一通り教えた。揶揄や悪態がとんでくることもあったが、本心からではないことが明らかだったので気にもならなかった。修業時代の初期は、実際の作業手順や方法を理解して、身体に覚えさせるのに費やされた。考え考え刈り込んでいたのでは、日が暮れてしまう。失敗を恐れるなという、
「木は切っちまっても、また伸びるもんだ。」
という親方の一言は、塩野さんの心に今でも残っている。
●2年足らずで一国一城の主になれる!?
親方のところで修業し始めて、季節が一巡した頃、仕事も一人前にできるようになった。親方が造る伝統的な庭の美しさも肌でわかるようになってきた。
しかし、何か心の中でくすぶっている。自分の時間がほとんどないことが原因だった。技術面 でかなわない親方に、待遇改善を言い出すわけにもいかない。独立という2文字が浮かんだ。
「独立してやっていけるのか、一番不安でした。」
という塩野さんのことば通り、2年にも満たない技術で庭師として独り立ちできるのか。
ところが、若い庭師の卵は、コロンブスの卵でもあったのだ。
お客が一番不満に思っていることを分析して、一つの営業方針を決めた。それは、1日2万円の定額制。依頼がきた時点で必ず相手方を訪問して見積り、1日でこれだけの作業ができることを告げる。例えば、庭全体を仕上げてくれと要望されれば、もう1日かかるから2日で4万という計算だ。
「実用的な植木屋になろうと思いました。逆転の発想です。」
と述懐するように、剪定を中心とした植木職人の道を選んだ。
まず、友人のデザイナーに「1日2万円」と明記したチラシを5000枚作ってもらった。それを仕事のない雨の日や日曜日に、住んでいる多摩地区を中心に、一軒ずつポストに入れて歩いた。また、梯子や鋏類、バリカン、消毒用の動力噴霧器、掃除用具、…、軽トラックまでを買い揃えた。開業までに50万近くの出費となった。
●目指せ、マルチ植木職人
97年6月に独立して、すぐに仕事が入った。初日は、一人でできる仕事量 がわからないだけに緊張した。結局、終わったのが6時を過ぎていたが、日が長くなっている時期だったので幸いしたという。
一人で作業をやる工夫として、細かいことにこだわらず、トータルに仕上げることを心がけるようになった。また、効率よくペース配分をするために、ある区域を剪定したら掃除をしてしまう。次の区域が終わったら、また掃除。こうすれば見積った箇所の手入れを残すこともないし、掃除が夜にかかることもなくなる。まさに、生きるための知恵といったところだ。自分の仕事を評して、
「安い分、だいたいの仕上げになります。だいたいと言っても、ポイントは外しませんが…。お客さんが、普段は自分で庭の手入れをして、1年に1回でも手に負えないようなところだけ、頼んでもらえればいいんですよ。一種のサービス業ですから。」
と語る。といっても、親方から学んだ職人の厳格さは、今も仕事の端々にしっかり根付いている。その上で、気軽に頼める植木職人を自認する。
肝心の売上は、月によってばらつきがあり、多いときで40万、少ないときでは4万だという。目標は200日働いて400万。リピーターや紹介の依頼も確実に増えているが、1月から4月までは閑暇期になる。また、雨天はどうすることもできない。
そんな自由な時間を使って、インターネットやホームページでビジネスができないか現在模索中だ。マルチメディアプロデューサーとしての顔を持つ町の植木屋さんの誕生も、そう遠くない日に実現するかもしれない。